八面神社の楠木伝承

豊川市御油町の八面神社は、
楠社と呼ばれていたと言います。

三河吉野朝の研究においては、
この周辺に王田殿という御所が有り、
長慶天皇が崩御された場所とします。

その地に鎮座する八面神社の御祭神は
楠木正茂の子・楠木正行とされます。

メルマガ読者と調査に行き、
参拝後に由緒書きを探しましたが、
神社の右横で見にくい場所で、
見つけるのに骨が折れました。

天文年間奈良吉野蔵王堂前
兄正成正朱と別れ
供七武将と計八名で
一時尼寺如意輪寺に落着き後に
東三河まで落人になって現在に至る

ものの本には楠木をはじめとした
八名の顔が彫られた神像の写真があり、
八面の名の由来となったと言います。

この情報が無ければ八面を鬼道の線で
調査を進めていたかも知れませんが、
鬼と絡められた可能性については、
ゼロとは言えないと思っています。

また、この神社の御祭神に関しては、
楠木正成ではなく楠木正儀とする
伝承も残されているようです。

同じ楠木なら大差ない様な話をすると
歴史マニアから怒られそうで、
アニオタに分かった様な口をきくと
命の危険があるようなものですね。

学校の歴史は全く駄目でしたが、
後になって自分で調べてみると
これだけ違った内容が出るのなら、
史実と違うのに事実であるとして
暗記を強要するのに無理があります。

日本は先進国で唯一歴史学部の無い
国と言われている様ですが、
正式なディベートを学んだ人が
歴史の研究を議論する教育は、
今後の課題として重要なのでしょう。

私の本を読んだ人は南朝についても
ケレン味のある情報を求める方も
いるのではと思うのですが、
地道な研究の末に結論が飛ぶ事が
希にあると言うだけの話なので、
やっている事は果てしなく地味です。

この地における南朝の痕跡が
歴史から抹消されたからなのか、
南朝の有力な武将達に纏わる
伝承が多いとされています。

このエリアで楠木が活躍したなら、
南朝の重要拠点であった可能性は、
かなり高いものとなりそうです。

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