三河南朝説では八面神社の御祭神である
楠木正儀の特異な伝承を伝えており、
三河王田殿に御所を構えた長慶天皇を守り、
三河の赤坂落合の地で足利軍と交戦し、
この地で戦死したと記述されています。
楠木正儀は楠木正成の三男とされ、
正平三年(1348)四条畷で兄二人を失い
家督を継ぎ南朝軍の将として参戦したのが、
彼の記述の最初の東條となります。
本拠地とされる河内(大阪府)を主に
高師泰と戦った事になっていますが、
大阪に楠木氏や和田氏の痕跡はあるものの、
本拠地は東三河だったのでしょうか。
一時は北朝側についたとされており、
『神統正当記』でも評価が低いですね。
これは軍事路線の長慶天皇に対し、
平和路線の交渉を望んだ事から、
天皇と不和となった事が理由とされます。
南朝に戻った正儀は南北朝の統合のため
和平路線となった後亀山天皇を擁護し、
南北朝の合一を果たさぬままに、
元中年間に死んだとされています。
三河吉野朝の説が正しいのであれば、
この周辺の歴史は崩れ去りますが、
この説が正しいか偽かはさておいて、
正儀の周辺に謎があるのは確かです。
南北朝統合時に譲位されたとする
後小松天皇はいても小松天皇は存在せず、
南朝天皇が劣勢なのに奢って戦を求め、
意見をしても通らず離反したと言うのも、
極めて怪しい部分ではありますね。
南北朝の統合のキーパーソンとされる
彼の周辺に疑問点が多いのであれば、
歴史の洗い直しの流れが出てくれば、
有益な成果を生む可能性は高いでしょう。