愛知県豊川市に鎮座する八面神社に
楠木正行の伝承が残されていますが、
一般的な歴史で語られる内容は、
この伝承とは違っています。
『太平記』は子供の頃の姿を説明した後、
途中を省き成人した武将として登場させ、
颯爽と登場し畿内の戦場を席巻させるも、
一年を経ずして死んだとします。
正行の史料には『太平記』の記述と、
正行が南朝の国司・守護として発給した
数通の古文書程度しか残っていません。
建武三年(1336)に行われたと伝えられる、
摂津国湊川(兵庫県神戸市中央区)における
九州から東上した足利尊氏・足利直義兄弟らと、
後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍の合戦は、
湊川(みなとがわ)の戦いと呼ばれています。
ここで正成は殺され首が六条河原に晒されますが、
足利尊氏の情けにより妻子に届けられたそうです。
正行はこれを見て自害しようとするも、
一族・郎等を養い挙兵して朝敵を亡ぼし
南朝を支えさせるためにこそ
戦に連れて行かなかったと母に諭され、
これでこそ父の恨みを晴らせると
武芸と智謀の鍛練に心血を注いだ事が、
『太平記』第十六巻に記されます。
尊氏の慈悲深さを伝えてはいますが、
もしこれが嫌がらせであったなら、
かなりの曲者であった事になりますね。
正行は四條畷(しじょうなわて)の戦いで、
室町幕府執事高師直・引付方頭人佐々木導誉・
河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)と
北四条(同市北条)で合戦して敗戦し、
自害した事が伝えられます。
正行は弓の名手・鱸(須々木)四郎により
左右の膝、右の頰先、左の目尻を射られ、
残った百十三人の兵も全員傷だらけとなり、
正行・正時・源秀は立ちながら差し違え、
同時に倒れ伏したとされます。
楠木正行・正時・和田高家・源秀の兄弟四人と
一族二十三人、従軍した兵士三百四十三人が
死亡した事を『太平記』は伝えますが、
正行を祀る神社が豊川に存在するなら、
『太平記』か地元の伝承に嘘があります。
太平洋戦争敗戦時と同様に歴史が書き替えられ、
事実を語る事の出来ない者達は暗号にする等、
様々な形で南朝の痕跡を残したのでしょう。
これをどこまで解けるかは現代人の課題で、
この国の本質を追及するために必要な
重要な鍵であると思われます。
楠木正成や正行の痕跡が愛知県にあるなら、
『太平記』の合戦の記述は捏造であり、
この地でこそ大規模な戦が行われたのか、
八面神社を参拝した時の雰囲気は、
様々な事を感じさせるものがあります。
大勢が参拝出来るスペースはありませんが、
豊川市に寄った時にはここに参拝しても、
得られるものがあるかも知れません。