東北と南朝

青森県の東半分から岩手県北部に及ぶ
日本中世最大の郡であった陸奥国糠部郡は、
文治五年(1189)の奥州合戦の後に、
鎌倉北条氏の所有となっていた様です。

東北と言うと僻地の様に思われていますが、
この時代の重要度は非常に高かった様で、
鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏が所有したと、
『比志島文書』に記されています。

糠部とその西の津軽半島の周辺は、
勝敗を決する最重要拠点とされ、
十三湊などの交易を押さえるために、
北畠親子が東北に派遣されたそうです。

『結城神社文書』には元弘三年十二月、
陸奥国府に到着した北畠顕家は親朝に
陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡内九戸を
領有させたと伝えています。

後醍醐天皇崩御時に北畠親房は東北にいて
『神皇正統記』を書いたとされており、
東北在住中に後醍醐天皇の政治に対し、
様々な非難を伝えていたとされています。

『神皇正統記』は南朝の重鎮が記したもので、
南朝側の内部資料としての価値があるとして、
長期に渡り研究対象とされてきた文書ですが、
東三河に南朝が存在していたとすれば、
この周辺も洗い直す必要が出てきますね。

私は在野の一郷土史研究家でしかないので、
南北朝時代の史料に関しての詳細は分からず、
具体的にどの様な史料が存在していて、
信憑性がどの程度かの全貌を把握しておらず、
この辺りは専門家に明確にして頂きたい所です。

公文書などの偽造の可能性の低い物は
史料的な価値が高いのでしょうが、
三河南朝に取り組む前に既存の史料の
信憑性がどれだけあるかを明確にする事は、
一応はしているものの個人なので弱いです。

東北は蝦夷地とされ奥州藤原氏はいたものの、
劣った地であったイメージが残っていますが、
鎌倉以降の東北の研究にも新たな視点を
提示できる可能性が三河南朝にはあるので、
特別三河のみに拘る必要はありません。

他の地域にも波及効果があると良いので、
東北の研究者も三河南朝に関心を持てば、
面白い展開が期待出来ると思っています。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする