徐福は童男童女三千人と百工を連れて渡来したとされます。
秦の始皇帝を欺いてこれだけの人員で渡来したのであれば、
秦帝国と同水準の国を弥生時代の日本に持ち込んだ事になります。
秦の始皇帝が焚書で様々な文献を燃やしたとされますが、
徐福がここで失われる以前の文明を持ち込んでいたとすれば
弥生時代のイメージが大きく変わるのは間違いないでしょう。
弥生時代に農業改革が行われたとするのが定説ですが、
徐福は孔子の弟子の子孫ともされているので、
古代儒教をベースとした農業を行っていた可能性があります。
儒教経典の「詩経」には古代中国の祭文が記され
農耕祭祀に纏わる詩も幾つか残されています。
都市開発の詩も残されているのですが、
開発する前に天地の神々とどう言う関係を作るかが
重視されていた事が分かります。
いくら文明が発達しても天地の恵みがなければ生きられず、
日照りが続くと王は身を犠牲にして雨乞いしました。
人間関係も困った時のみでなく普段の関係が重要なように、
天地の神々や山の神、川の神、田の神、穀物の精霊などと
ともに喜びあえる文明を重視していたようです。
産業革命以降の世界的な文明の流れは、
人間を上におき自然を搾取対象として見てきましたが、
徐福王朝の痕跡のある三遠では古の精神を見つめ直し、
自然との関係を重視した都市開発や文明の模索をする事が、
日本の中心地として求められるビジョンではないでしょうか。