北畠親房の東北経営

『神皇正統記』を記した北畠親房は、
戦前に南朝の忠臣と称えられたのに
戦後は一転して酷評されるようになり、
昔の恋人の悪口しか言わないような
両極端な評価がなされていました。

南朝の用いた朱子学も低評価ですが、
好きとなれば良い面しか見ず、
嫌えば悪い面しか見ない弊害が、
朱子学の入門書である『大学』に
指摘されているのは皮肉ですね。

親房が陸奥国(東北)で敗れた理由を、
時代の変化に対応できない選民意識で
武士達を見下していたからとして、
延元三年に送られてきた書状への回答に、
恩賞を求める事を商人の様な損得で動く
卑しい考えと書いた事が挙げられています。

『白河結城文書』にあるこの言から
彼の差別意識が非難されて来ましたが、
近年の研究では親房は配下の武士達が
官位につけるよう熱心に書いた推薦状が
データとして提示されています。

恩賞として官位を与え始めたのは
後醍醐天皇からとされており、
室町幕府では足利直義がこれに反対し、
彼の失脚の後に採択されたと言います。

北畠親房が東北経営を失敗したのは
彼の政策にはそこまで問題はなく、
別の理由があったとする議論も提唱され、
親房の再評価がなされてきてはいますが、
ここにも問題が見受けられますね。

親房は鎌倉幕府からの流れを
そのまま流用する施策をしたとされ、
鎌倉幕府を倒したはずの南朝に、
幕府側の人材が重用されているのは、
私の説の裏付けになりそうです。

後醍醐天皇を批判する『神皇正統記』は、
どこまでが正しいのかを追及するには、
東三河の南朝の問題を避けて通る訳に
いかない部分があるのは確かでしょう。

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