『神皇正統記』は誰に向けて書かれたか

北畠親房は東北にいた時に
『神皇正統記』を書いたとされ、
白山本を始めとする諸写本の中に、

此の記は去る延元四年秋
或る童蒙に示さんが為に
老筆を馳せる所なり

と或る童蒙の為に書かれたとあり、
これが後村上天皇を指しているなら、
なぜ天皇を見下す表現をしたのか
疑問視されてきました。

昭和四十年に松本新八郎氏は、
当該期の親房の最大の課題は
東国武士を味方に引き入れる事で、
童蒙は結城親朝を意味しており、
結城宗広・親光の忠誠を称えて、
身方に引き入れようとしたとします。

これが一時は通説として広まり、
後に我妻建治氏は童蒙の用語が
儒教経典の『周易』の中に登場し、
童蒙が君位を意味しているので、
後村上天皇を指すとしました。

周易は私も読んではいますが、
童蒙は普通に無知蒙昧な子供で、
教育に関わる卦に出てくるので、
違う説を立てたいと思います。

三河南朝説では三河に遷都する時に、
北畠親房が三河に来たとされており、
この真偽は定かではありませんが、
三河に南朝が存在した痕跡があるなら、
親房は東北でなく三河にいた可能性も
かなりの度合いであると思われます。

となると『神皇正統記』を東北で
親房が書く事は不可能であり、
後醍醐天皇を批判し皇統を記した
日本史に多大な影響を及ぼした書は、
北朝側の捏造の書の可能性があります。

幼稚で無知蒙昧な人物を欺くために
記したと書だと語っているのなら、
読んで騙された相手を見下すのが、
童蒙の意味だったのかも知れません。

運命に翻弄されながらも平和を求め、
愚劣で蒙昧な後醍醐天皇に対峙した
足利尊氏のイメージは完全な虚像で、
人を見下し権力欲にとりつかれ、
北朝天皇を取り込んだ戦いこそが、
南北朝の動乱であったのでしょうか。

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