熊野の奥宮とされる玉置神社の摂社にある
熊野三柱神社は三狐神(みけつかみ)とされ、
「玉置山権現縁起」にこう記されています。
所謂天狐地狐人狐也。於新宮者飛鳥ニ住。
則漢司符将軍之妻室。三大明神之母也。
権現之御氏人千与定子。嫡子雅顕長者。
次男長寛長者ハ今飛鳥大行事ナ
其子地平符将軍。其子漢司符将軍。
鎮西彦山ニ於テ上津河原大明神ト号ス
新宮ニ於テ牛鼻大明神ト号ス本地毘沙門
其子三大明神者榎本直俊本地不動、
宇井基成本地大日、鈴木基行本地毘沙門天王也
天狐王之形躰本地大聖歓喜天吒天
三面六臂六足正面観音右面天狐面左面地狐面
第一左手持弓箭第二左手按腰右手持三鈷第
三左手持髑髏指杖右手宝棒持向下
左足踏己男之胸挙二足屈
右足ハ地ヲ踏二足ハ挙之皆鳥之足ノ如シ
熊野の阿須加神社に住まう三狐神の中の
天狐の本地は聖天・ダキニ天とされ、
後醍醐天皇が修したとされる呪術の神です。
阿須加神社は徐福に由来するとされるので、
この二尊は徐福が持ち込んだ神であり、
これらの神々を復興した後醍醐天皇が
グローバルな信仰を保持していたなら、
南朝のスケールは想像より大きいでしょう。
熊野は天皇となるためのダキニの儀礼で
重要視されてきた聖地でもあったので、
この深層に徐福由来の世界的な神々が
南朝の時点で復興されていたなら、
熊野も世界的聖地であった事でしょう。
南朝が先住民族復興王朝だったとすれば、
熊野も徐福に由来する本来の在り方を
復興させていた可能性は非常に高く、
これを良しとしなかった室町幕府により、
熊野の深層も封印されたのでしょうか。