熊野速玉大社の近くに鳳来山があり、
この山の麓に阿須加神社が鎮座します。
阿須賀には徐福渡来伝説が残され、
徐福一行が阿須賀の地に上陸し、
蓬莱山の麓に住みついて、
里人に様々な技術を伝えたとします。
戦後に発掘調査が行われた結果、
弥生時代の竪穴式住居趾や土器類等が
境内から出土したそうですが、
徐福は様々な地に移動しているので、
ここにも都市を作った可能性はあります。
熊野市波田須(はだす)にも徐福伝説があり、
徐福宮や徐福の墓が残されているだけでなく、
波田で秦氏の痕跡も見る事が出来ますね。
『東三河の徐福伝承』には書きましたが、
本宮山の麓に秦氏が多いと伝承され、
徐福に由来する秦氏の伝承が複数あるなら、
確証の度合いは高いものとなりますね。
阿須加神社摂社に阿須賀稲荷神社があり、
熊野の深層に稲荷が関わっていた痕跡を
幾つか見つける事が出来ました。
熊野の奥の院とされる玉置神社の
『玉置山権現縁起』に三狐神が記され、
「天狐・地狐・人狐」は熊野新宮の
飛鳥(阿須賀)を本拠としており、
本地を極秘の口伝と伝えています。
江戸時代成立とされる熊野の古文書
『熊野年代記』の天智十年の項には、
五月、飛鳥社に白狐が出現したとされ、
壬申の乱以前から熊野と狐とが
関係していた痕跡を伺わせます。
熊野大神は初め神倉山に降臨し、
次に阿須賀の森に遷り、
熊野大神のうち家津美御子は
さらに貴袮谷に遷ったが、
結速玉の二神はそのまま
阿須賀の森に留まった。
第十代崇神天皇の御代に
家津美御子はさらに熊野川上流の
音無の里(本宮)に遷り、
結速玉は第十二代景行天皇の御代に
今の新宮に遷座した。
と古伝に阿須賀神社を熊野発祥とし、
熊野三山のルーツとされている事から、
熊野の根底に徐福が関与していた可能性は、
十分にあるのではないかと思われます。
とするとダキニ天も徐福と関係しており、
徐福がこの国に持ち込んだダキニ天は
邪悪な神とされる以前の原初のダキニで、
後醍醐天皇の行じたダキニの修法は、
徐福に由来するものであったのでしょうか。
徐福渡来の時代背景を考慮に入れると、
ヒンドゥー教に悪神として取り込まれた神々は
アショーカ王の時代には高貴な神々とされ、
この国の深層に未だに影響を及ぼし続ける
鬼道に密接に関係してるのでしょう。