熊野信仰の変遷

以前は熊野三山に参詣するのに
伊勢路と紀伊路上の二つがあり、
伊勢路の方が古くから開け、
伊勢と熊野が関係していました。

伊勢と熊野は矢ノ川峠を境に、
表裏の関係とされていたそうです。

白河上皇は紀伊路を通り熊野参詣をし、
伊勢路は使わなかった様ですが、
歴代天皇の伊勢の神宮への参拝は、
明治天皇まで見受けられません。

上皇による熊野御幸が始まってから、
伊勢と熊野の関係が切れたとされます。

藤原氏の影響を排除した院政下で
伊勢より熊野が盛んになったのは、
伊勢の神宮と藤原氏との関係を
考慮に入れての事だったのでしょうか。

院政と浄土信仰の時期は重なっており、
古代的な死者の国であった熊野は
阿弥陀如来や観音の浄土とされ、
蟻の熊野詣に繋がっていきます。

釈迦の教えが廃れて世が乱れるのが
永承七年(1052)とされており、
この年は後冷泉天皇の御代ですが、
この次の天皇が後三条天皇であり、
熊野参詣に繋がりますね。

院政により藤原氏の摂関政治から
武士の時代に入っていきますが、
僧侶は堕落し情勢は安定せず、
元寇も重なり末法思想が流行ります。

日本の終末預言書である『未来記』は、
著者の聖徳太子が馬小屋で生まれており、
景教のイエス・キリストが元ネタなら、
ユダヤの終末預言みたいなものですね。

熊野で信仰される阿弥陀如来も
ゾロアスター教や景教に関わる
ミトラ信仰に由来しているなら、
上皇の熊野参詣の目的とは、
熊野一神教化だったのでしょうか。

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