熊野那智大社と徐福

那智大社の青岸渡寺(如意輪堂)は、
仁徳天皇の御代(313~399)に、
インドから熊野に漂着した裸形上人が
那智で滝行をしている最中に
滝壷から八寸の観音像を感得し、
安置したのが始まりとされます。

上人は後に熊野の山岳修験場を
開いたとされているので、
役小角よりも古い時代から
熊野に修験が存在していたと
暗に示している伝承ですね。

なんとこの僧は数百年生き、
和銅年間(708 – 715)にも
新潟県にある妙高山の麓に
関山神社を開き熊野信仰を広め、
ここでは白山修験と熊野修験の
二系統の修験が共存したそうです。

インドから熊野への漂着は伝承じみて
どこまでが本当かは分かりませんが、
インドと言えば徐福も関与しています。

熊野の阿須加徐福にも徐福伝承があり、
他の熊野の神社には見られない事から、
熊野の徐福の痕跡が消された時期が
存在した可能性を感じさせますね。

観音堂の成立が七世紀頃とすると
壬申の乱周辺に関わってくるので、
これも古事記・日本書紀周辺の
邪馬台国の歴史の隠蔽に対し、
ヒントを残した物なのでしょうか。

白山も修験も壬申の乱の後に、
役小角と縁のある行者によって
開山されたと伝えられていますが、
関山神社開山はここに絡みます。

新潟県辺りまでに安曇族の痕跡を
見いだされているとの事なので、
三遠との繋がりがありそうです。

裸形上人は他にも痕跡を残しており、
中々に謎が多い存在ですね。

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