明治以降の熊野

明治維新の後に神仏分離が強行され、
国家神道の国教化政策が進められた事は、
歴史に多少明るい方ならご存知でしょうが、
熊野の神社も八~九割廃滅されたそうです。

記紀神話や延喜式神名帳に載らない神々は、
熊野においても大概は抹消される事となり、
発心門王子で饒速日命を祀るなどの
細々とした痕跡しか見る影がありません。

切目や猪鼻王子などの残滓も風前の灯火で、
本来の姿が残されていれば古代大和の姿も
遥かに明確になっていたのでしょう。

熊野にも南朝の痕跡が多々有ったのに、
抹消された可能性は高そうですが、
徐福や南朝、更には三遠と熊野との
関係の研究の流れが出てくれば、
この国の復興に高い価値があります。

熊野の神社が破壊された事とリンクして、
熊野修験もかなりのダメージを受け、
日本人の精神性にも多大な損害を与え、
安直なものに流れる傾向が出ていますが、
昔の修行者よりレベルが高いとは、
必ずしも言い切れない状況でしょう。

お手軽なものに流れるとコツコツを嫌がり、
都合の悪いハードな事は誤魔化し押し付け、
勝ち馬に乗る傾向が出てきかねませんが、
都合の良い時だけ善人振るのは簡単で、
むしろ難局の時にこそ真価が問われます。

修験道の蔵王権現は厳つい存在なので、
優しく慈愛を垂れると言うよりは、
ハードに鍛え上げてモノにする
いかにも男が男になる道のように、
近代的な温さは見当たりませんね。

自然には優しく慈しむ側面もあれば
厳しく鍛え上げる側面もあり、
片親のみで育つ弊害と同様に、
双方のバランスが重要です。

近年は女性性ばかりが主張されますが、
互いに磨かれた男女でなければ、
良い夫婦関係が築けない事を考えると、
片手落ちでは問題があるでしょう。

ヒーラーだけ集めて進まないので、
特性を踏まえた上での戦略が
どの程度のレベルかが問題ですね。

むしろ今後の時代に必要なのは、
大自然の中で自らを磨き上げる様な
気宇壮大な雄大さのある主体的な人材で、
新たな道を切り開いていく大物こそ、
追及する価値があるのかも知れません。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする