
倒幕計画が幕府に発覚した後醍醐天皇は、
天然の要塞と言われる笠置山に逃げ、
元弘元年(1331)の幕府軍と戦う
「元弘の乱」が勃発したと伝えられます。
守りやすく攻めにくい地形を利用し、
二千五百の天皇軍が七万五千の幕府軍に
大健闘をしたものの敗戦してしまい、
後醍醐天皇は隠岐島に流されたと言います。
笠置山は一ヵ月間も壮絶な戦場となり、
全山灰燼に帰したと伝えられるので、
昔の痕跡は殆ど残されていない状況で、
巨大なイワクラが昔を偲ばせます。
鎌倉時代には興福寺の高僧・解脱上人が、
南都仏教に疑問を感じて笠置寺に隠棲し、
宗教改革運動を展開する事で隆盛を極め、
山内に49ヶ寺も小院が建ったと言います。
解脱上人貞慶は1155 – 1213年の人で、
承久の乱が1221年とされているので、
鎌倉幕府が朝廷よりも力を持ち、
朝廷が倒幕を仕掛ける気運のあった頃の
人物と言えそうな時代に生きています。
となると笠置寺も鎌倉幕府による
先住民族祭祀の復興がなされており、
近畿地方の要衝として機能したので、
大規模な戦に繋がったのでしょう。
とすると笠置寺の機能は寺院にとどまらず、
南朝の復興した優れた文明が花開いていており、
徹底的に破壊すべきものとされた可能性は
かなり高いのではと思っています。