金胎寺と笠置寺

京都府の南東端に近い和束町に聳え立つ
標高682mの鷲峰山(じゅぶせん)にある
金胎寺にも後醍醐天皇伝承があります。

笠置寺の北にあるこの寺にも巨石が多く、
『興福寺官務牒疏』によると、
金胎寺は天武天皇の白鳳四年(675)、
役小角の草創とされていますが、
笠置寺と同時期と伝えていますね。

聖武天皇により平城京の鬼門封じとして、
堂が建立され勅願寺となったとされ、
やはり笠置寺と同様に東大寺との関係が
指摘されているのは興味深い所です。

『興福寺官務牒疏』の成立は
嘉吉元年(1441)とされており、
南朝よりも後に記されているので、
後醍醐天皇までの都合悪い歴史は
書かれていないと見れそうです。

後醍醐天皇が東大寺から笠置寺へ
落ち延びる途上に立ち寄った事が
『太平記』に記されており、
ここも笠置寺と同様に弥勒仏を祀り、
創建の時代も焼き討ちになった事も
共通しているようですね。

日本における弥勒信仰も二系統あり、
役小角は新羅の花野(ファラン)と
繋がりが存在していましたが、
彼らは弥勒信仰であったとされます。

彼の時代は新羅と百済の抗争があり、
現在の日本で知られる弥勒信仰は、
百済系の仏教に属していますね。

ミトラは本来多神教の神であり、
ヴァルナとペアで信仰され、
後にゾロアスター教に取り込まれ、
メタトロンやイエスキリスト、
阿弥陀如来などに影響を与えます。

となると後醍醐天皇と関わりのある
弥勒信仰の聖地は新羅側のもので、
多神教系のミトラと見れそうです。

金胎寺は真言宗醍醐派であり、
醍醐天皇との因縁が存在するなら、
笠置の醍醐天皇・菅原道真の伝承と
何らかのリンクがありそうです。

醍醐山は笠取山とも呼ばれますが、
笠置山と関係はあるのでしょうか。

道真の大宰府左遷の伝承に、
遥かに巨大な歴史の謎が
秘められているのであれば、
道真の神輿を担いで行われた
志多羅神上洛事件の背景にも、
更なる深層があるのでしょう。

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