
井伊家と南朝との関係は深く、
井伊谷のみならず奥山半僧坊も、
両者の関係で建てられたそうです。
奥山半僧坊は建徳二年(1371)に
井伊家一族の奥山朝藤の開基とされ、
後醍醐天皇の十一番目の皇子であった
無文元選が開山して建てたそうです。
この寺には半僧坊権現が祀られており、
無文元選を助けた神とする伝承が、
『奥山方廣寺記』に記されます。
無文元選禅師が当地の領主の案内で、
至徳元年(1384)方廣寺に入山した時、
白髪の老人に弟子にしてくれれば、
お仕えして末永く山を守ると言われ、
禅師はお前は半ば僧形であると
口ごもったのが半僧坊の由来です。
老人は禅師の生前は随侍しますが、
師の滅後にその姿を消すと、
山内に不思議な事が度々起こり、
京都の名仏師であった八木氏を招き、
老人の御眞影を彫刻させます。
仏師は夢でみた老人の姿を刻みますが、
その姿は猿田彦のようだったと言います。

半僧坊には烏天狗の像があるので
ここから色々と仮説を立ててみましたが、
住職さんに聞いたところ持ち込まれた像で、
本来は関係ないもののようなので、
実地の聞き込みも大事ですね。
天狗にも四種類あると聞きましたが、
鼻高天狗と言ってもユダヤ人のような
外来系の特徴を言っているのでなく、
猿田彦信仰を隠した感じもしますね。
猿田彦は伊勢125社から省けにされ、
花祭にも登場する神でもあるので、
先住民族の神が云々のお決まりの話は、
ブログ読者ならもう聞くのもアレです。
天狗のマイナスイメージは南朝周辺で、
元々は流星と呼ばれて星神に関わり、
流星と呼ばれていた手筒花火が
スサノオの御神事であった事は、
『豊橋三大祭の深層』に書きました。
半僧坊から帰る時に山道を通ったら、
一車線しかない険しい道路が続き、
死にそうになった覚えがありますが、
ここから姫街道沿いに繋がります。
姫街道は二見街道と呼ばれており、
二見で祀られている猿田彦と
関係している説を立てていますが、
ここでも南朝が先住民族祭祀と関係した
可能性を提示出来るのでしょうか。