古代朝鮮

秦の始皇帝の後に前漢が中国を支配し、
漢代の中国知識人は植民地である朝鮮に
関心を示していなかったとされます。

この時代の西北朝鮮には中国の燕国から
亡命あいた満を中心とした国家が形成され、
中国王朝と対等にまでのし上がったとされます。

最古い史料である『史記』に記された
衛氏朝鮮の概貌は以下の通りです。

朝鮮王になった満は燕国からの亡命者である。
これよりさき、燕の全盛期には
真番・朝鮮も燕にほぼ服展していた。
前222年に秦が燕を滅ぼしたとき、
この地方は遼束郡の領域外であった。
漢が前202年に中国を統一すると、
盧綰(ろわん)を燕王とした。
ただ朝鮮は遠くて守りがたいというので、
前からあった遼東郡の塞を修理し、
沃沮(よくそ)水までを燕の領土とした。
前195年、燕王盧綰が匈奴へ亡命したさい、
満は一で余人を率いて朝鮮に亡命し、
真番・朝鮮の異民族や、
中国の燕や斉からの亡命者を支配して王となり、
都を王換に定めた。
前195年〜前180年に遼東太守が満を外臣とし、
満に遼東郡外部の異民族を支配させた。
そのかわりに異民族を遼東郡内部へ侵入させず、
またこの地方の異民族が
朝貢するのを妨げないとの約束ができた。
そこで満は周囲の村落を侵略し、
真番・臨屯などをも服属させて、
その領土は数千里四方に及んだ。
満の孫、右渠の時代になると、
漢からの亡命者がしだいに多くなった。
右渠は漢に一向に朝貢しないばかりか、
真番周辺の諸国が朝貢しようとするのを妨げた。
そこで前109年に漢は右渠と戦い、翌年これを滅ぼした。

『史記』が記されたのは徐福渡来後に
秦が滅んで前漢になった時代とされ、
秦や半島の歴史の捏造が行われた事は
容易に想像がつきますね。

この時代の中国史には様々な矛盾があり、
インドが外交上の視野に入れられたのが
秦帝国より後の事とされているのに、
元は秦は中国の西端の小国であり、
徐福はインドに行って薬師如来像を
持ち帰ってきたとされています。

秦始皇帝の兵馬桶にギリシャ彫刻の
影響が見られる事は良く知られており、
秦が西方文化と関係があったなら、
『史記』の記述は捏造となります。

秦が朝鮮半島まで支配していた
可能性を考慮に入れる必要が出ますが、
こうなると徐福渡来も中国からでなく、
半島経由の可能性も出てきますね。

こうなる三国史記の記述も捏造で、
朝鮮南部に存在した倭国の記述や
倭人が侵略してきた記述についても
色々と見直す必要が出てきます。

徐福は不老不死の薬を持ち帰れず、
始皇帝に更に多大な要求をしつつ、
帰国しないのに捕獲も殺害もされず、
始皇帝より格上の感があります。

案外、徐福こそ王であり、
日本を含めた広域を統治した
王であった事が隠蔽され、
山師にされたのもかも知れません。

始皇帝が行ったとされる焚書も
漢によりなされた可能性があり、
古代アジアの謎は深そうです。

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