吉田兼好は僧侶となっていますが、
彼の伝承を見ると神道の神に繋がります。
種生伝
一 兼好の出生
兼好法師のいにしへをたづね侍るに、
むかしあめつちのはじめに、
国常立の尊の天御中主の尊と申す、
おはしましけり。
更御名を、あめのやくだりの尊と申奉り、
それより代々の嗣々に、あめのあはせの尊、
あめのやを日のみこと、あめのやちゝたまの尊、
たかみむすびの尊、かんみむすびの尊、
かみはやたまのみこと、市ちたまの尊、
をきとたまの尊、そのつぎに天児屋尊と申奉るは、
忝けなくも春日の御神にておはします。
其御子、天の押雲の尊、其後を天種子命、
うさつをみの命、みけつをみのみこと、
いかつをみの命、なしとをみの命、
またみゝの命、此時にや、
天皇仲哀はじめて卜部の姓を賜ひしとかや。
其小はしの命、あまひさ卿、真人の大連、
かまおほきみ、くろ田大連公、
ときは大連、また中臣連の姓をたまふ。
かたのこ大連、其子二人、一をばみけこの卿、
其子は大織冠鎌足にてまします。
二をば、くにこの大連、其子国足、
また其子を意美麻呂といひける。
大織冠は朝条につかうまつりていとまなく、
おみまろに神のみわざをつたへて、
これよりしてこそ、代々神祇ノ官に任補せらる。
おみまろ、やがて神祇伯正四位
上左大弁中納言に任ぜられしとかや。
代々神祇の宮に任補され神祇伯正四位となり、
僧侶より神道家として有名であっても良い
経歴を持っているようですね。
実際に吉田兼好は吉田神道の創始者である
吉田兼俱(かねとも)と家系的に繋がると
喧伝されていた事がありますね。
これは吉田兼俱が権威付けのために
兼好を取り込んだとする説もありますが、
中々に探ってみると奥が深いものがあり、
今後の研究の流れを出すためにも、
取り扱う価値のあるテーマです。
彼が僧侶や歌人としては有名なのに、
神道の側面から語られる事がないのは、
一体何が原因なのでしょうか。
彼の時代は南朝が伊勢神道を重視し、
吉田神道は伊勢神道に連なるので、
彼はその橋渡しの時代に生きた
要の存在であった事になりそうです。
彼が出家の後に女に手を出して
諸国を漫遊する事になった話にも、
裏がある事は容易に想像がつきます。
南北朝対立の動乱の時代を生きた
彼の生涯が生半可な物で無かった事は
普通に考えて当然の事でしょうが、
信仰対立でもあった南北朝の抗争で、
吉田神道の源流にある兼好にも、
様々な困難があった事でしょう。