明治二十五年刊行の佐々木信綱著
『校註徒然草』(博文館)の序文に
次のように記されています。
南北の争ありしはじめつ方に、
君を思ふ真心深く、
しかも我国ぶりの文章にすぐれられしは、
北畠准后、兼好法師の二人なり。
明治の漢学者である依田学海著の
『徒然草評釈』の注釈書序文には、
此書の作者兼好法師は、
後醒醐帝に事へ奉りし事あるをもて、
此書中に南朝を正統とたゝへ奉りて、
そのかたさまに心をよせし事、
古人すでにその説あり。
よく書を読むの卓識といふべし。
吉田兼好が後醍醐天皇と関係を持ち、
かの北畠と形を並べる人物として
持ち上げられている事が分かりますが、
兼好と後醍醐天皇との関係について、
殆ど語られる事はありません。
吉田兼好は『徒然草』の著者程度の
隠居坊主としてのイメージしか
現代では広まってはいませんが、
南北朝の動乱の時期を生き抜いた
時代背景がどこかに行っていますね。
南朝を正統と称えていると言う事は、
南北朝対立の背景があった事になり、
南朝側であったのなら平穏な人生を
送った人物とは出来ないでしょう。
現在では『徒然草』の認知だけですが、
江戸時代には詳しい人物像が広まり、
情報の出所は伊賀の国とされており、
伊賀で兼好の塚が発見されたそうです。
この時点で既に怪しさ満載ですが、
兼好には更に深い謎が存在しており、
私の研究の信憑性はさておいて、
大幅なイメージの変更がなされる事は
間違い無い事でしょう。