国府の古墳

豊川市には国府の地名がありますが、
この意味は国の府で朝廷を意味し、
奈良時代から平安時代にかけて、
国司が政務を執る施設が置かれたり、
都市があった場所に付けられています。

三河吉野朝の研究によると、
東三河の西のこのエリアに
南朝が勢力を構えていて、
この中心に位置しているのが
船山御陵とされています。

この墓は応永十八年(1411)の
小松天皇37回忌・長慶院法皇3回忌に
小松天皇(実父)と長慶院法皇(養父)の
菩提陵として松良天皇が制定したもので、
「天皇山」「船山」等と呼ばれたとする
研究が残されてはいます。

天皇山は船山古墳を用いたものとされ、
西三河最大の古墳ではありますが、
長研究天皇の墓が特定された事から、
道路工事で半分削られてしまっています。

あくまで仮に認めただけの話だったので、
地元の伝承と共に残しておく事をすれば、
日本有数の聖地として地域振興に使えた
可能性があるだけ残念な事ですね。

上宿は神宿、上宿神社は天皇神社で、
小松天皇と長慶院法皇の二基の墓石が
残っていると言われてはいますが、
実際に上ってみると秋葉社と津島社の
二つの社が鎮座していました。

三遠の津島社は南朝に由来するものが
多いと伝えられてはいるのですが、
この二社も天皇である事を隠すための
カムフラージュなのでしょうか。

船の名をつけるのも意味ありげですが、
それより問題なのが古墳である事で、
本当に天皇の陵墓を他人の古墳の上に
造るものなのでしょうか。

三河南朝の皇族の墓が古墳であったと
関係資料にあるのを読んでいると、
高貴な存在が故人の墓を乗っ取る事に
違和感を感じる部分はありますね。

もし南朝が古墳を造営したとすれば、
壬申の乱で用いられなくなった古墳を
新たに作り始めた事になります。

南朝が狂気の異端であったとすれば、
故人の墓を乗っ取り権威に用いる事は
考えられない事もないですが、
邪馬台国の古墳文化を復興させたのか、
そもそもこの説自体が違っているのか、
様々な可能性が提示出来るでしょう。

何でも強引に肯定・否定に持っていく
一方的な論理展開は学術的に未熟なので、
総合的な研究が出てくる流れを出すのが
この記事を出す意義ですね。

これを読みどの様な仮説が立てられるか、
質を問わずに数を出し尽くした後に、
根拠やデータを洗い直してみて、
興味深い仮説が見つかったなら、
コメントに書いてみて下さい。

こう言った部分のみで三河南朝の言説が
キワモノ扱いされるのは問題ですが、
部分的には確かに疑問が見受けられ、
研究者により説が違ってもいるので、
全肯定も全否定も出来ない状況です。

それを言い出すと学校の教科書が
更に突っ込み所だらけなのですが、
議論するなら本来は教科書などから
徹底的にやらないと悪影響が大きく、
歴史教育の功罪を見直す必要があります。

南北朝の戦いでも太平洋戦争の後に
教科書が大幅に書き換えられたような
教育の変化があったのでしょうか。

アメリカ追随が終わりを迎える現状、
抑圧された問題に向かい合う必要に
迫られて来る事になるでしょうが、
南朝も目を背ける事の出来ない
大きな課題として残されています。

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