東三河の西端の御堂山山頂に
山城の跡が残されており、
丹野城跡と呼ばれています。
丹野城は文明年間(1469-1486)に
萩原芳信が一時の敵を防ぐため
全福寺の僧徒を動員して構築した
山城と伝えられているので、
南朝よりも後の時代の話ですね。
御堂山の麓には萩原神社が鎮座し、
この伝承を裏付ける感がありますが、
萩原大明神には別伝が存在しています。
一番の問題はこの神社に残されてきた
大宝天皇の祝詞の存在でしょう。
南朝天皇である大宝天皇が関わるなら、
この神社の創建は文明年間ではなく、
南朝にまで遡る可能性があります。
なぜこれが重要なのかと言えば、
この御堂山は三河吉野朝の研究で
卍山と呼ばれる南朝の拠点とされ、
山頂の丹野城跡が南朝の後か否かで
解釈が大きく変わるからです。
卍山を歴史から抹消するために
荻原芳信の伝承が捏造されたなら、
ここに南朝が王朝を築いた可能性は
格段に上がる事になりますね。
この地は多賀と呼ばれイザナギと関係し、
日本屈指の聖地であったのであれば、
相応の復興をなすべきでしょう。
日本神話上トップクラスの聖地の多くが
まともな扱いがなされていないのが
三遠の現状なのを何とかする必要があり、
執筆をしている部分もあったのですが、
南朝を出さずに進めるにはやはり弱く、
価値の認識が低いまま終わりかねません。
神道関係者であればイザナギ尊の聖地が
雑に扱われる事を良しとしないでしょう。
度会氏の興した伊勢詣りのように、
内容に精通した上での運営がないと、
欲の匂いがして魅力が無くなりますね。
古代の三遠が地理的にも祭祀的にも
ヤマトの中枢であったのであれば、
相応の歴史や聖地があって然るべきで、
この基礎研究をどれだけ充実させるかで
今後の展開が大きく変わるのでしょう。