三河吉野朝研究における卍山

山口保吉氏の『三河吉野朝の研究』に、
卍山の詳細な記述が存在しています。

多賀の里は卍山下にあり、
嘗て弘法人師空海行脚の際無双の霊場なりと
荒廢せし全福寺を再興し中興の開基となる。
紀念のため唐よみ齎すところの菩提樹を手栽す、
乙れ有名なる日本三菩提樹の一なり、
大師山勢を相して卍山と稱せり、
降って源頼朝父義朝の墓所を眺め得る當山を
三河七御堂の主座となし
山形内へ大修理を加え源家の 香華院となす。
當山(卍山)は海上交通の至便と
朔避陽享要害無双氣候温和なる桃源境たり。
北畠親房、幼帝義良親王(後村上天皇)を奉じて
當寺一山の擁護のもとに、
御津ケ濱天畑へ御上陸遊ばされ
全福寺に御入山遊ばさる。
山下多賀の里の中央小畑に
御円の御所を御造営あり
御津の府の皇都御造営中、
久しく行宮と定め給ふ。
艮方に當たり高祖伊佐那岐大神を祭祀し奉る、
依て此の里を多賀と尊稱す。
行宮の南方に當りて山上に
後醍醐天皇の御神靈を祭祀す、天皇山と稱す。
卍山は吉祥萬徳の聚る淨地なり。
されば神皇正統繼體の
天子の忍潭の地として御選定あらせ給ふ。

山口氏の研究は時代的背景もあり、
私の徐福研究のようなものベースに
展開している説ではないので、
かなり飛んではいるものの、
私ほどいってはいない感じです。

三河吉野朝で信仰される稲荷神社も
伏見から持ち込んだと記述されますが、
私は豊川稲荷説なので違っています。

多賀についても琵琶湖ではなく、
古代の三遠に根拠があったのではと
思われる節が存在しているのですが、
日本書紀の記述の解釈などをすると
また面倒なので別に譲ります。

卍山にはメルマガ読書と上りましたが、
暗がりの中で神像の写真を撮ったら
背景が光ってくっきり写っていて、
現代でも聖地の風格がありました。

空海行脚で無双の霊場とされ、
三河七御堂の主座であったなら、
観光ではなく修験の聖地として、
この地を運営していくのが
良い形ではないかと思います。

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