行基の時代

今までの私の研究で言うと、
徐福から邪馬台国を経て
邪馬台国滅亡の壬申の乱まで
ある程度書いて来てはいます。

そこから志多羅神上洛事件と
その流れから明治維新までの
一連の推移についての概略は
押さえられていますね。

ただ壬申の乱から志多羅神までの
一連の推移となると不明瞭で、
この間の研究に位置付けられる
行基から菅原道真への推移を
押さえおく必要があります。

奈良の大仏を建立した聖武天皇と、
その子・称徳天皇までが天武系で、
それ以降は天智系の天皇が続いたと
一般的な歴史では言われています。

天武天皇の孫の文武天皇から
二人の女帝の後に聖武天皇に
移行したとされていますが、
文武天皇は新羅の文武王が
モデルではと思っています。

聖武天皇は文武の第一皇子とされますが、
天武系から天智系への過渡期の記述は、
かなり微妙な問題が含まれています。

天武天皇の子の草壁皇子も、
三河一宮エリアの日下部氏を
取り込んだものとする説は、
『豊橋三大祭の深層』に
書いた覚えがあります。

侵略側の長が先住民族の王族から
王女を娶る事で王となる話は
騎馬民族では普通にありますが、
日本ではどうだったのでしょう。

この周辺の歴史の記述は複雑で、
文献からは天武系と天智系の
実際のところが釈然とせず、
実地調査で分かった感じです。

飛鳥から平城京に遷都する前は、
奈良の南側から大阪にかけてが
日本の要衝とされていますが、
私の研究では三遠の王朝が消され、
西日本中心の歴史観が形成された
大変動の時期と見ています。

ここから志多羅神上洛事件で
菅原道真の神輿が担がれて
体制変革に繋がるまでの流れに、
かなりの謎が秘められています。

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