静岡県西の大平洋側から北上した山脈の中の、
四方浄の行基堂に行基発祥の縁起書があります。
668年に中田の里で法華の妙音のような産声で
聖徳太子の生まれ変わりとして出生し、
15才まで三洲析福寺の上人に引き取られて養育され、
18才に中田の里に一家を建てて仲田山般若院と号し、
仏像を刻んで四方(川名、伊平、別所、的場)に安置し、
四方浄土の霊地として四方浄と名付けたそうです。
父・高志才智は日本に論語や千字文を伝えた
王仁(わに)博士の子孫とされていますが、
この周辺の記述は一般の行基の伝承と、
そう大して差がある物ではありません。
母から百済王の子孫と伝えられたと
伝承されているようですが、
私の研究を読んできた人であれば、
疑問点を見つけられるでしょう。
聖徳太子の記述は随書倭国伝にはなく、
アメタリシヒコという男王が記されます。
日本書紀は親百済で新羅を憎んでおり、
行基伝承はそちらサイドの人物により
事実を隠蔽するために創作されたか、
体制の追及を避けるために誤魔化したか、
ともかく事実ではない可能性があります。
笠置寺の調査で東大寺の木材を調達した
行基伝承が隠された事を書きましたが、
行基には隠蔽すべき都合の悪い情報が
付きまとっていたのでしょうか。
四方浄の地は鬼神の祭である
花祭が継承される奥三河に通じる
山脈の中にあるエリアです。
行基に由来するとされる祭に
ひよんどり(火踊り)がありますが、
これも花祭と同様に悪者でない鬼が
登場する祭となっています。
行基は壬申の乱の前後に生きた人物で、
先住民族王権に通じる人物であったなら、
彼の様々な活動に理解出来る部分が
幾つも出てくる事になります。
壬の申の乱で天武天皇と共に戦った
役小角も仏教との関係がありますが、
花祭の神ともされる役小角と、
行基の関係は存在するのでしょうか。