行基の師匠はかの玄奘三蔵の弟子、
法相宗の道昭(どうしょう)とされ、
道紹や道照とも呼ばれるそうですが、
色々と調べると問題が出てくるので、
どうしようと言った感じですね。
白雉四年(653)に遣唐使として入唐、
玄奘三蔵に師事して法相教学を学び、
斉明天皇六年(660)頃に帰国し、
多くの経論・経典を持ち帰ったそうです。
ここで私の読書なら待ったが出そうですが、
まさしく国内を二分する壬申の乱の前に
唐から帰国した僧侶と言う事になります。
壬申の乱が672年とされているので、
道昭は邪馬台国が滅亡する以前の僧侶で、
行基はこの流れを汲んでいるのでしょうか。
壬申の乱を内乱ではなく侵略戦争とする
私の説は特殊なものではありますが、
この仮説の信憑性が一定度あるなら、
この視点から解釈しなおす事によって、
様々な学説に新たな視点が得られます。
この仮説は既に様々な本に書きましたが、
内容が重複しないようにしてあるので、
どれを読んでも違った知見が得られます。
東大寺建立の行基の痕跡が隠された事を
笠置寺の記事で書いた事がありますが、
行基には歴史から抹消された領域が
存在していた可能性は高いでしょう。