行基は法興寺で法相教学を学んだとされます。
鎌倉時代の学僧で日本仏教史で著名な
凝念が記したところを見てみると、
法相宗の日本伝来には道昭を始めとし、
智通・智達、智鳳・智資、玄昉の
四段階があったそうです。
この中の第三伝である智鳳・智繁が
義淵僧正に法相を教授したとされ、
義淵の高弟に玄昉僧正や行基菩薩等、
七名があげられていますね。
行基は義淵から法相宗を学び、
玄昉と同門であった事になりますが、
玄昉は藤原広嗣が権力の座から
排除しようと乱を起こした相手で、
ここから遷都が始まり大仏建立に
繋がっていく事になります。
今日では、この周辺の説には
様々な疑問が提示されており、
この周辺を書いていくと専門的で、
先生がラリホーマを唱えるレベルで
眠くなる事間違いないでしょう。
とりあえずこの周辺は根拠薄弱で、
はっきりした事が言えないと
様々な説で説明されており、
各段階が同じ内容であったとは
言い切れないとされています。
視野が狭くなると他との関係を
見落とす可能性が高いので、
周辺情報に目を向ける事により、
行基の仏教がどのようなものか、
理解出来る可能性は高いですね。
行基の布教活動が批判された
養老年間の教界の指導者が
義淵であったとされており、
横田健一氏は行基と義淵の関係に
疑問を提唱しているようです。
道昭の帰国は壬申の乱以前の話で、
乱以降に持ち込まれた教義は
武即天の大乗仏教の影響を
多分に受けた可能性が高く、
同一の信仰体系と見る事が可能か、
検討の余地がありそうです。