女官として宮中に仕えた県犬養三千代は、
飛鳥時代に美努(みぬ)王と結婚して
三人の子女をもうけたとされており、
長男の葛城王が後の橘諸兄とされます。
美努王は敏達天皇の後裔とされ、
臣籍降下で改姓して橘となり、
橘三千代を名乗ったそうです。
美努王と離別した三千代は、
藤原不比等と再婚する事により
光明子・多比能(たびの)を生み、
光明子が聖武天皇の妻となります。
久米田古墳群に橘諸兄と光明子が
祀られているとされますが、
双方とも三千代の子供となり、
光明皇后は橘諸兄と父親違いの
同じ母から生まれた子となります。
光明皇后陵にも行ったのですが、
余りにも独特な雰囲気の場所で、
いかにも藤原氏サイドな印象を
強く受けた事を覚えています。
三千代は橘サイドか藤原サイドかで
大きくスタンスが変わりますが、
概してこの時代の人物達は、
非常に謎が多いですね。
三千代と行基と繋がりについて
実際に関係があったか否かを
調べてみたのですが、
やはり関係していた記述が
残されている事が分かりました。
ここは余り話題に上がりませんが、
これが事実であったとすれば、
行基は政界と深い繋がりが
存在した事になりそうです。