試みの大仏殿

行基菩薩が東大寺建立に先だって、
本堂を建立したという伝承から
「試みの大仏殿」と呼ばれています。

東大寺大仏殿の十分の一の大きさで
大仏殿を建立したとされていますが、
一度焼けた後の再建だそうです。

721年に行基が布教や民衆の救済や、
東大寺の大仏建立の活動拠点とし、
行基が入滅した寺と伝えられますが、
ここには大きな謎が存在します。

東大寺には廬舎那仏(大日如来)の
巨大な仏像が建立されていますが、
菅原寺の本尊は阿弥陀如来であり、
脇侍に観音菩薩と勢至菩薩を従える
阿弥陀三尊で構成されています。

東大寺に盧舎那仏像が造られたのは、
天平十二年に河内国の知識寺で、
聖武天皇が盧舎那仏を礼拝した事が
動機とされている様なのですが、
試みに阿弥陀如来像を造ったのは
何故なのでしょうか。

この阿弥陀如来像が造られたのは
平安時代とされているそうですが、
それ以前は廬舎那仏であったなら
変更した理由が何だったのか、
始めから阿弥陀如来だったのか等、
詳細は分からないようですね。

この仏像が光を発したのを見て、
喜光寺と改名されたと言います。

阿弥陀はアミターバ(無量光)とされ、
太陽神であるミトラがペルシャに入り、
ゾロアスター教に取り込まれた後に
ユダヤ教や仏教に影響を与えたとされ、
信じれば救われるキリスト教的な信仰は、
釈迦の仏教とは全く関係ありません。

行基とはその信仰の系統が違う神を
試みの大仏殿に建立した背景には、
一体何が存在したのでしょうか。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする