行基の法相宗の師とされる義淵には、
『扶桑略記』や『東大寺要録』に
父母が長年観音菩薩に祈願して
授かった子とする記述があり、
天武天皇が彼の皇子と一緒に
岡本宮で養育したとされます。
醍醐寺本『諸寺縁起集』薬師寺縁起は、
憤怒により悪龍に変じた大津皇子を
義淵と修円が調伏し龍峯寺を建立したとし、
験力を持つ僧侶と認識されていたようです。
大津皇子でなく草壁皇子に変じた等の
異伝が多く存在するとされていますが、
大津皇子も草壁皇子も天武天皇の血統で、
天武天皇により養育された伝承は、
後世の捏造の可能性も出てきますね。
日本国内を二分する壬申の乱では、
天武天皇側に新羅との関係をもつ
役小角が加担して戦っていますが、
日本書紀には百済寄りの記述が多く、
義淵も百済仏教サイドなのでしょうか。
行基の師匠であったとする話も
嘘であった可能性も浮上しますが、
優れた僧であった行基の師が
先住民族の司祭階級であったなら、
隠蔽すべき扱いがなされたとしても
不思議はない事になりますね。