行基が出家したとされる法興寺は
日本最古の寺院の一つとされますが、
百済系渡来氏族の蘇我氏により、
氏寺(うじでら)として建立された
寺院とされているようです。
当初の住持は百済僧の恵聡(えそう)と
高句麗僧の恵慈(えじ)との二人とされ、
行基が入る二年前の680年には官寺、
すなわち国家監理の寺院となっています。
行基が高句麗・百済の僧に師事して
仏教を学んだと言う事になっており、
行基が百済人の流れをくむ人物と
喧伝された事と関わっています。
672年に起こった壬申の乱の後に
日本の仏教のあり方が大きく変化し、
統一的な中央集権国家が仏教に深く関与し、
仏教が国家宗教として確立される中で、
僧尼も国家監理の対象となっていきます。
684年に仏教行政の最高機関である
僧綱(そうごう)を設置して
僧正・僧都・律師の三階級の官を任じ、
702年には諸国に国師を任じて
宗教行政の制度を次第に整えたとされ、
現在知られている日本の仏教は、
この周辺から整備が始まっています。
ここで言う仏教はアショーカ王の仏教を
小乗として非難した大乗仏教であり、
徐福がアショーカ王の仏教を持ち込み、
役小角の修験道に連なっている事は
『三遠式銅鐸と古代出雲』を読めば、
理解出来ると思います。
役小角は壬申の乱を天武天皇の側で
戦った仙人とされていますが、
修験道は元からな神仏習合で、
諸宗教を統合したアショーカ王の
仏教の系統であったのでしょう。
役小角は新羅との関係が深く、
行基がこの系統の僧侶なら、
新羅系の仏教側ですね。
行基の伝承を百済側として
取り込んだ背景には、
壬申の乱以前の仏教勢力を
行基が束ねた事を抹消する
目的があったのでしょうか。