行基は法興寺に入って道昭の弟子となり、
「瑜伽論」「唯識論」などを中核とした
法相宗(ほっそうしゅう)と呼ばれる
大乗仏教哲学を学んだとされています。
道昭は『続日本紀』文武四年条に詳しく、
重要な位置付けが為されていたようです。
中尾堯・今井雅春編の『日本名僧辞典』には、
かなり興味深い事が書かれているので、
関係した部分を引用してみる事にします。
舒明天皇元年(六二九)に、
河内国丹比(たじひ)郡で
船史恵尺(ふねのふびとえさか)を
父として生まれた。
船氏はその柤が王辰爾(おうしんに)で、
百済系帰化人である。
かれの出家の年次は明らかでないが、
二十五歳で入唐学問僧に選ばれ、
白雉四年(六五三)五月に
大使吉士長丹(きしのながに)、
副使吉士駒(きしのこま)等、
百二十一人とともに
一船に乗りこんで唐に渡った。
同期の入唐学問僧は中臣鎌足の息子の
定恵(じょうえ)ほか、
十五名の名が伝わっている。
禅院で後進を指導していた道昭は、
やがて自己の教えを実践しようと、
あちこちを歩きまわり、路傍に井をほり、
交通の要衝には渡し船を設けたり、
橋を作ったりした。
道昭が天下を周遊したのは十年余の間であったが、
やがて朝廷の勅請によって禅院に止住した。
天下を十四年間も周遊し公共工事をした事が
行基の土木工事の動機になったとする
理由付けとして相応の人物ではありますね。
遣唐使として唐に渡った653年は
壬申の乱の672年より前の話であり、
壬申の乱が百済側の侵略戦争なら、
百済系帰化人とされている事にも
疑問が出てくる事になります。
道昭の大乗仏教は百済系の仏教で
一神教の影響を色濃く受けたものなのか、
アショーカ王の仏教の流れを汲んだ
神仏習合の修験道であったのかで、
全く違った話になりますね。
大乗仏教が小乗と呼んで否定したのは
アショーカ王の説一切有部とされ、
自分の事しか考えない小さなヤツと
こき下ろされていはいますが、
実際の所どうだったのでしょう。
これについて書こうとすると、
更に本一冊分の記述が必要になり、
読むべき本が何冊も出てくるので、
諸々考慮して省略の方向で。
アショーカ王の仏教が自分の悟りしか
考えていない利己的なものであったかは、
詳しく書くと本一冊分の情報量があり、
機会をみて書く可能性はありますが、
結構壮大なテーマとなりますね。
一つだけヒントを書くのであれば、
アショーカ王の仏教の実際は
コスモポリタニズムであり、
宗教分野のみに止まらない、
実社会の様々な領域に関わる
実践的な物だったと考えています。