行基の時代の日本と唐との関係は、
大宝二年(702)に遣唐使の派遣が
行われた後は717年まで行われず、
一度しか行われいないと記述されます。
唐側の記述を見ると日本からの使者が
傲慢で信頼ならないとされているので、
壬申の乱で別の王朝が樹立したのに、
昔から存在していたとする日本書紀の
歴史観で外交していた感じがしますね。
この頃から国名が倭国から日本に
シフトしてくる事になりますが、
壬申の乱が侵略戦争であったとする
私の説の根拠の一つになっています。
この領域に関しては『平将門の深層』で
色々と書いた事はあるのですが、
まず702年と言えば武即天の治世で、
純粋な遣唐使として見る事は、
難しい部分がありそうです。
武即天が705年に没した後、
玄宗が彼女の影響力を廃して
716年に唐を再興していますが、
翌年に遣唐使が派遣されています。
玄宗と言えば前半は有能でも、
後半は楊貴妃に溺れる事で
唐の滅亡の原因を作った
人物として知られています。
大宰府は筑紫都督府と呼ばれますが、
唐の植民地化管理施設の名前であり、
この周辺には歴史の隠蔽の影が
幾つも散見される状態にあります。
先住民族王権側の天武天皇は、
新羅と交流していた側であり、
天武天皇と戦った側の歴史書は
親百済で反新羅で一貫しています。
この時期のアジアの情勢については
歴史で学習する機会がありませんが、
新羅が高句麗を滅ぼしたものの、
高句麗の勢力が勃海国を建てて、
日本と密接な交流をしています。
日本の歴史で渤海について
殆ど学ぶ事はありませんが、
渤海は巨大な帝国であり、
遣唐使よりも遥かに多くの
交流がなされていました。
となるとこの周辺の歴史全般は、
アジア情勢全体の動向との関係性を
視野に入れての再解釈が必要であり、
これにより白鳳時代のイメージが
完全に一新される可能性がありますね。