日本と新羅仏教の関わり

702年に遣唐使が再開されると、
新羅に派遣される学問僧は、
正史で取り上げられなくなります。

新羅は唐と組む事によって
百済や高句麗を滅ぼしますが、
後に唐との関係に変更があり、
情勢が様々に変化していきます。

702年と言えば壬申の乱の後で、
ここで倭国から日本に国名が変わり、
唐が武即天により周となっていた
アジアの歴史の中で特殊な時期です。

行基が668年生まれであるなら
34歳頃の話となりますが、
様々な修行を終えた時期ですね。

古事記・日本書紀の編纂により、
日本の歴史が一本化しますが、
日本書紀は反新羅を貫きます。

新羅仏教は修験道と関係が深く、
役小角にも通じていますが、
こちらは先住民族サイドなので、
朝廷サイドの仏教とは系統が
全く異なる事となります。

新羅からはギリシャ・ローマの
様々な出土品が発見されており、
ヘレニズムの痕跡を色濃く残した
朝鮮半島の残存勢力であったなら、
徐福やアショーカ王の仏教と
関係が深かったのでしょう。

根拠もなしに結論を述べてしまうと
学術的に検討が出来なくなるので、
朝鮮半島の歴史書の『三国史記』を
詳細に分析したいところですが、
分量がかさむので別の機会に。

朝廷サイドで新羅について
隠したい領域が存在したなら、
これに通じる行基にも、
様々な隠蔽が想定されます。

行基の謎は国内に止まらず、
古代世界のグローバルな領域に
関わってくるかも知れませんね。

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