『行基菩薩伝』に記された所によると、
藤原広嗣の乱の翌年の三月十七日、
聖武天皇自ら山背国相楽都の泉橋院に
行基を訪れて終日懇談したとします。
行基は木津川(泉川)に泉大橋を架け、
橋の維持管理を行なうための泉橋院、
泉布施院・隆福尼院などを建立し、
恭仁京造営の苦役を軽減するために
活動していたとされています。
行基は聖武天皇との懇談の中で、
これまでの諸院建立の由来を語り、
天皇は行基建立の諸院の官による
保護を約束したとしています。
この交渉がなければ現代に残る
行基由来の寺院の数々は、
存在すら許されない状況に
陥っていたのかも知れません。
かの志多羅神上洛事件も行基の建てた
昆陽寺から発生したとされていますが、
ええじゃないかの核心である秋葉寺も
行基由来とされる修験の寺院です。
神仏分離で秋葉寺が破壊され
秋葉山信仰は忘れ去られますが、
江戸時代の秋葉街道を調べれば、
その凄さが分かります。
となるとこの段階が現代まで至る
様々な動きの布石となっており、
これがばければ日本は相当に酷い
状況に陥っていた可能性は、
非常に高いと推定されますね。