菅原寺は行基の大和国で唯一の
活動した拠点とされており、
『清涼山歓喜光寺略縁記』には、
元明・元正・聖武天皇三代の勅願寺、
鎮護国家の寺と記されています。
しかし、この小規模とは言えない
大仏建立に関わる重要な寺院が、
国史から除外されています。
体制から弾圧されていた行基は、
大仏建立のために庇護を受け
菅原寺で活動したとすれば、
聖武天皇の時代からとなりますが、
元明天皇の頃から存在した寺院なら、
行基開山伝承にと矛盾が生じます。
天武天皇の孫である文武天皇の
次の代の天皇が元明天皇とされ、
壬申の乱以降の都市開発において、
最初からプランに組み込まれた
寺院の可能性が高いでしょう。
この周辺は菅原の里と呼ばれ
土師氏のエリアであったので、
そこに寺院を造ったのであれば、
彼らから土地を略奪した事で
造営された寺院なのでしょうか。
菅原寺が東大寺大仏建立に
重要な位置付けであったのに、
国史から除外された背景には、
行基に纏わる歴史の隠蔽が
横たわっているのでしょう。