菅原寺の先行研究に優れたものがあり、
殆ど見る事のない観点で検証した労力は、
関心させられるものがありますね。
研究では菅原寺を藤原氏の寺としており、
平城京の風水を考慮した都市開発を元に
構想された寺院あるいは施設の一つの
可能性を提示されていますね。
平城京は藤原氏の氏寺である興福寺と、
元興寺・大安寺・薬師寺の官営三寺に
菅原寺の五寺が初めから組み込まれ、
平城宮城に近い北側から移転ないし
築造が行なわれたとしています。
行基が個人宅を譲り受けた伝承が、
かなり危うくなる研究となりますね。
『略縁記』の菅原寺の記述に
「古くより興福寺一乗院に属す」
と菅原寺・興福寺の関係が示唆され、
興福寺と対になる位置にあります。
菅原寺の敷地規模と立地は
他の官営大寺に匹敵しており、
興福寺と対で企画されたになら、
藤原氏の設計なのでしょうか。
藤原氏の寺であれば阿弥陀如来像が
始めから安置されても不思議はなく、
これが本当であれば菅原寺における
行基伝承が捏造された事になります。
笠置の記述で東大寺建立の木材調達の
行基伝承が隠された事を書きましたが、
菅原寺の行基伝承もこの文脈で
解釈すべきものなのでしょうか。