菅原遺跡

喜光寺を中心とした地域は、
古くから菅原の里とよばれ、
『万葉集』にも歌が残されます。

万葉集と言えば柿本人麻呂の記事を
途中で止めて南朝を書き始めたので、
まだこの周辺は書き足りないですが、
壬申の乱前後に関わっていますね。

菅原寺の西北約1kmの丘陵頂部に
菅原遺跡が存在していますが、
発掘調査から『行基年譜』に記された
長岡院の可能性が高いとされています

何故この遺跡が歴史から抹消され、
この地の行基伝承にも登場しない
秘密とされたのでしょうか。

大仏建立は藤原四兄弟が死去し、
藤原氏の権勢に陰りが出た事と
密接に関わっています。

試みの大仏殿とされる喜光寺周辺は、
元は菅原の里にいた土師氏の領地で、
平城京への遷都により藤原氏が
ここに押さえをきかせたなら、
何故隠す必要があったのでしょう。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする