ピラミッド型の頭塔の記述を探ると、
一応それらしき物が存在している様です。
正倉院文書続修二二に収められている
天平宝字四年(760)「造南寺所解」には、
造南寺所解 申請奉写仏頂経用度物事
請
紙十四張〈内訳省略〉
銭百六十文〈内訳省略〉
布清衣一領 袴ー腰〈経師料〉
香ニ両〈小〉
右当東大寺南朱雀路壊平為墓鬼
霊奉写仏頂経一卷用度料所請如件以解
天平宝字四年三月九日 舎人玉手「道足」(自署)
史生麻柄「全万呂」(自署)
と東大寺南の朱雀路の墓を壊すにあたり、
墓の鬼霊の供養のための写経料物の申請に
造南寺所が出した解とされています。
これは行基が死んだ後の話とされますが、
考謙天皇の時代に生存していた記述が
公的な文書に存在している事について、
『行基菩薩とヘレニズムの復興』に
一応は記しておいてあります。
行基死亡説が偽りであるならば、
南寺と頭塔も行基が造った
可能性が浮上してきます。
この周辺に新薬師寺も存在しますが、
春日大社とも関係していた事も
本に書いてはおきました。
これだけで結構ヤバい雰囲気ですが、
結論を言うとそれより遥かに
ヤバい話になってはいますよ。