『詩経』には「興」と呼ばれる
概念が存在しています。
鄭玄は興を事を物に託す事とし、
朱熹は先に他物を言い詠んだ詞を
引き起こす事としているので、
自然物に託して詩意を述べる方法と
近年まで信じられて来たそうです。
朱子の説は言霊が実現化すると
捉える事も出来そうですが、
この説は赤塚忠氏が既に提唱し、
特別私の奇説でもなさそうです。
言霊信仰に基づく呪文・呪言・
呪謡から展開した呪詞であり、
古代の習俗や信仰と直結する
特殊な詩表現としており、
斯く見れば詩経中の興物の草が元来呪物であり
興詞は呪詞から起こるものであることは明らかで、
興詞はもと宗教観念を前提とし
切烈直接な祈願の情を表すものであったので、
これを根抵として况物観念の移るがごとく
いっそう詩的な展開を遂げたものと
見なければならないのである。
と『詩経研究』において述べています。
古代に草が呪物とされたのなら、
雑草扱いして殆ど活用されない
草の価値をより引き出していた
可能性を感じさせてくれます。
白川静氏は「興的発想の起原とその展開」で、
一言にしていえば、興的発想は
原始的な心性のうちに呪的発想として成立し、
そういう宗教的心意の衰落するとともに
情緒的に詩想を導く発想へと
変質していったものということができる。
と古代から変質していったとしており、
多産の魚は豊作や女性の多産を祈願する
豊年や婚姻の興とされていたり、
河を渡るという行為は水神祭において
予祝儀礼とされていたものが、
婚姻や恋愛の興となった説もあります。
イメージから連想される感覚が
影響を与えるとする思想を
隠語に近いと思ってしまった私は、
原始的な心性を理解出来そうです。