孔子は詩三百編を一言で言うと
「邪な思いがない」としており、
誠から発せられた言霊こそが
天地の神霊に感応するので、
政祭には誠が重要としています。
政は正でありバランス感覚が
重要と言われてはいますが、
現代文明は天地人が度外視され、
人の和ではなく無責任な政治が
支配的な感じを受けます。
儒教で言う性善は神性や仏性の事で、
万物に仏性が宿るとした仏教思想や
アニマムンディ(宇宙霊魂)とも
根幹的には共通のものですが、
これが国家祭祀や実社会運営に
どう関係するかまで追及しないと
お題目で終わってしまいますね。
一般的な仏教のイメージでは、
出家して修行をするのが大事で
政治に関与すると問題がある
微妙な立ち位置の感がありますが、
小乗と呼ばれた仏教において、
これが逆転する可能性があります。
寺は政祭一致の行政機関であり、
ここで僧侶が教えを説いた事から
仏教のものとされたそうですが、
時代的には大乗仏教よりも前に
中国に入った仏教になります。
アショーカ王の仏教は広域の
様々な宗教哲学の研鑽が為され、
儒教思想も混入したとおぼしき
痕跡まで存在している事は、
岩戸開きの本に書きました。
と言う事は自分の事しか考えない
小乗として批判された仏教は、
道理の上に実社会の運営を行う
ストア哲学的な実践的なもので、
天地の神々と密接に交流した
優れたものであったのでしょう。
御神体山も自ら上らなければ
頂上が降りてくる事はなく、
人の事を考えている振りをして
楽をしようとしても無駄なので、
自ら道を歩む事を小乗と言っても
基本的な事でしかありません。
農作物も工業製品化するなど、
人としての根幹から外れた
産業革命以降の流れにあり、
抜本的な見直しに関しては、
余りにも進んではいません。
口先だけで何もしないケースは
実社会で良く見かけますが、
日本農業の衰退が叫ばれても
食べ物一つ見直せなければ、
誠があると言えないでしょう。
太陽、月、水、地霊などの
恵みがなければ成立しない
命を扱う農耕における祭祀は、
邪な思いが混入していては
効果は見込めないのでしょう。