大宰府の前身が何であったかの議論は、
・那津官(なつのみや)家とする説
・百済救援のため筑紫に下った
斉明天皇の朝倉橘広庭宫とする説
・筑紫大宰の駐屯地として
筑紫野市の武蔵寺近辺に考える説
・白村江の戦いの敗戦後に
筑紫大宰も大宰府もできた説
等の様々な説が提唱されています。
北九州の外政上の重要な施設であった
大宰府がいつ出来たかという記述が
『日本書紀』に書かれていないので、
この様な事になっているようですね。
壬申の乱が侵略戦争であったとする
私の説は中々にレアなものなので、
これらの仮説の前提からして違い、
挑戦半島の白村江の戦の後ではなく、
国内の壬申の乱後の成立と言えそうです。
この時期に前後合わせて四千人ほど
唐から日本に来ていたとされており、
『三国史記』等に記されたアジア情勢を
根幹から見直す必要がありそうです。
都督府は朝鮮半島にも存在しており、
日本の筑紫都督府と関係ないものとして
扱われている根拠がどの程度のものか、
洗い直す必要がありそうですね。
この時期の歴史を記す書は数少なく、
それらの成立の背景を探る事で
信憑性がどの程度になるかが、
今後のアジアの歴史の研究課題と
なってくるのではと考えています。
『三国史記』は高句麗が記した
新羅・高句麗・百済の歴史書で、
公正に記された書と言えるか
難しい問題が数多くあります。
この周辺は具体的に色々あるので、
個別詳細に掘り下げていかないと
多岐に渡り過ぎてしまいますね。