菅原道真公は大宰府に左遷されて死亡、
後に怨霊となったとされていますが、
様々な人物の左遷先となった大宰府は、
いつ頃から記述に見えるのでしょうか。
天智天皇六年(667)は「筑紫都督府」で、
同十年(671)に「筑紫大宰府」の記述が
初めて登場している所から考えると、
本来の大宰府は都督府と呼ばれており、
言い替えられた可能性もあります。
大宰府は失脚した貴族の左遷先ともされ、
菅原道真や藤原伊周が中央から排除され
大宰府に行ったとされています。
大宰府に左遷された事を恨んだ
藤原広嗣による反乱が起こり、
天平十二年(740)の反乱の影響で
数年間大宰府が廃止されていたものの、
天平十七年(745)に復活します。
都督府は唐の植民地管理施設の名で、
大宰府が筑紫都督府であった事から、
遣唐使を廃止させた菅原道真や、
大宰府を廃止させた藤原広嗣は、
時代背景から再解釈が必要になります。
藤原広嗣の乱の詳細に関しては、
『行基菩薩とヘレニズムの復興』で
真相についての研究を書きましたが、
やはり唐との関係が深そうでした。
平将門の乱と同時代の藤原純友は、
瀬戸内海で海賊行為をするものの、
大宰府が乱の最終地とされており、
やはり大宰府と関連しています。
天智天皇と天武天皇の勢力抗争が
壬申の乱とされているので、
都督府がこの頃の名前であれば、
日本の対外政策の見直しが
どうしても必要になりますね。
大宰府が左遷先とされたのは、
全く違った意味があったとして、
歴史の洗い直しをする事により、
様々な発見があると思われます。
菅原道真公が遣唐使を廃止した伝承は
唐との関係性が変化した時期の大宰府と
密接な関係があった事が推察されます。
壬申の乱の後に唐の影響下で苦汁を舐めた
先住民族の独立の動きが存在したなら、
志多羅神上洛事件で菅原道真の御輿が
石清水八幡宮に向かったとされるのも、
時代背景からの見直しが必要でしょう。
道真公が遣唐使を中止したとする話も、
容易に裏がある事が察せられますが、
天神信仰にはアジア情勢の変化と
深い関係が存在したのでしょうか。