菅原道真公は天神として祀られ
天満宮で有名となりましたが、
太宰治天満宮は905年に墓所上に
廟が創建されていたところに、
919年に勅命で建立されたそうです。
道真が太宰府で亡くなった日に
防府勝間の浦に神光が出現し、
酒垂山に神々しい雲が現れた事から、
904年に天神を日本で最初に祀った
松崎の社が建立されたと伝えられ、
太宰治より前が伝えられています。
問題なのが北野天満宮より前に、
菅原道真公の生誕の菅原の地に
吉祥院天満宮が建てらており、
道真公没後の承平四年(934)の
朱雀天皇の勅命によるとされます。
延喜二十三年(804)に
菅原道真公の祖父・清公卿が
遣唐使として唐へ向かう途中、
暴風で船が転覆しかけたので、
最澄と共に吉祥天女に祈ると、
天女が風雨を静めたとされます。
どこかしらダキニ天やマタラ神と
類似した雰囲気の伝承ですね。
大同三年(808)に吉祥天女像の
開眼供養を最澄が行い吉祥院と号し、
菅原家の守護の本尊とすると共に
国家鎮護の祈願所としたとされ、
最澄との深い関係が見えます。
道真公は元慶五年(881)十月に
是善卿の一周忌追福に多くの僧侶を招き
法華八講を行ったとされているので、
仏教に深く関与していた事が分かります。
道真公の祖父が最澄と共に唐に渡り、
帰国後も交流があった事については、
殆ど知られていない話になっています。
さて、東三河の歴史を探ると、
遣唐使と吉祥天女、密教について、
特殊な伝承が残されている事を
目にする事が出来るのですが、
あくまで伝承でエビデンスは無く、
学術的にまだ微妙な所です。
吉祥天の身内は酷い言われ様で、
ヒンドゥー教で悪神から改心した
天部の話を探っていくと、
アショーカ王の仏教で習合した
輝ける神々であった可能性は、
本に書いている所です。
祖父の代から密教との関係が
非常に深かったのであれば、
天神伝承は密教的側面からも
洗い直す必要がありそうです。