数々の悪業を行った陽成天皇が
光考天皇にすげ替えられた後、
光考天皇は自らの次の天皇として
貞保(さだやす)親王を立てるため、
光孝天皇は貞保親王以外の息子を
数多くを臣籍降下させたそうです。
時の権力者であった藤原基経は
貞保親王の母を嫌っており、
光孝天皇は藤原基経に気を使い
後継者の話を避け遺言も残さず、
基経が光孝天皇の没後に望んだのは
宇多天皇の即位だったと言います。
陽成天皇が極悪と言われる背景に
様々な問題が存在していますが、
陽成天皇からの流れを見直す事で、
この周辺に疑問が浮上してきます。
源頼朝の先祖が清和天皇の息子か
陽成天皇の息子かで議論があり、
石清水八幡宮建立もこの周辺で、
源氏の八幡信仰は有名ですね。
歴史の深層に関わる重大な時期に
疑問が存在するのは問題であり、
日本史の解釈を大きく塗り替える
可能性を秘めた話になってきます。
陽成天皇が存在していなければ、
道真公の登用は無かった事になり、
大きな時代の流れに関わる事は
間違い無い話となってきます。
この周辺で多くの臣籍降下が
行われたとされる背景を探ると、
余りにも大きな歴史的な謎が
浮上してくる事になりますが、
源氏にガッツリと関わるので、
源氏の本に譲ろうと思います。