契丹により滅ぼされた渤海は、
契丹からかなりの恨みを
買っていたとされています。
925年に西北の征服を一段落させた
耶律阿呆機(ありつあぼき)は、
両事のうち、既に一事はおわりぬ。
思うに渤海こそ我が歴代の宿敵。
この恥をそそがずして、
どうして安んじられるべきか
と宣言して渤海国への侵攻を開始し、
契丹軍の総攻撃を受け渤海国は滅亡。
渤海国を滅ぼした耶律阿保機は、
その地に東丹国を建て子を王位に即け、
王族や有力貴族を契丹国に移住させるも
国家組織や官僚制度はそのまま残し、
文官を支配下に置いたと見られています。
渤海の日本への外交官として
親好を暖めてきた裴璆は
東丹国の外交官として登用され、
渤海滅亡の三年後に使節として
日本に派遣されたと伝えられます。
日本の朝廷の扱いは冷たくそのまま帰国し、
日本は契丹との交流を排除したとされますが、
契丹側には日本からの使者の記録が残され、
国内外における記述に違いがあります。
渤海を歴代の宿敵とした契丹には、
どの様な歴代が存在したのでしょうか。
菅原道真は渤海の使者と漢詩で応酬し
親好を暖めた記録が残されていますが、
唐の内乱で遣唐使の廃止をしたとされ、
唐の滅亡後にパワーバランスが崩れ、
渤海が契丹に滅ぼされています。
日本では道真公の死亡の後に
藤原純友の乱で大宰府が壊され
志多羅神上洛事件が起きますが、
アジア情勢と絡めて語られる事は
全くと言って良いほど見えません。
国内外での歴史の記述の違いは、
大規模な歴史の隠蔽が存在した
可能性を提示するに十分です。
契丹が渤海を宿敵とした理由は、
渤海が高句麗の末裔である事と、
何らかの関係があるのでしょうか。
高句麗・百済と新羅・倭国で
戦争をしていた歴史を顧みると、
契丹は新羅・倭国側の勢力で、
朝廷との反りが悪かった事は、
容易に推察する事が出来ます。
となると契丹の信仰は天神信仰と
親和性が高かった可能性は、
非常に高いのではないでしょうか。
高句麗と北方系騎馬民族の間に
古からの確執が在ったのなら、
古のアジアに通じる深層が
横たわっている可能性を
十分に感じさせてくれます。