660年、百済は唐と連合を組んだ
新羅によって滅ぼされます。
日本は百済の残党の救援再興のために
海軍を派遣するも白村江での戦いで全滅、
669年、百済に進駐した唐兵2000人余が
北九州に上陸し準占領状態となったと、
一般的な歴史では認識されています。
大宰府は筑紫都督府と呼ばれますが、
都督府が唐の植民地管理施設の名なのは
準占領でない可能性を示唆してそうです。
半島にも都督府が存在しましたが、
偶然同一名称であったと断定するのは
十分な検討がないと厳しいですね。
この周辺は実地調査をする事により
歴史を覆す痕跡が幾つも発見でき、
この後に起こされた壬申の乱も、
お家騒動ではなかった事については
既に何冊も本に書いて来ています。
大宰府が植民地管理施設であったなら、
日本史上の大宰府への左遷について、
全く違った文脈で解釈されるべき
意味合いが存在する話となります。
大宰府に関わる人物を挙げると、
藤原広嗣、菅原道真、藤原純友などの
反逆者や大怨霊とされる人物が多く、
彼等が酷く言われる様になった背景に
アジアとの関係を視野に入れないと、
解釈を大きく間違かねないでしょう。