大宰府とアジアとの関係

大宰府が現在の地にできたのは、
日本が朝鮮半島の白村江に海軍を送り
敗戦した結果と考えられています。

百済は救援のため唐・新羅軍と戦ったと
『日本書紀』に記されてはいますが、
修験道の役小角は新羅と繋がりがあり、
天武天皇と共に壬申の乱を戦っています。

となると倭国は新羅・唐サイドで、
高句麗・百済と戦った可能性が
濃い話になってきますね。

『日本書紀』は新羅を徹底的に
悪く言いまくっていますが、
極悪天皇とされる武烈天皇は
新羅の武烈王がモデルでしょう。

『三国史記』は高句麗と百済が
有効関係になかった事を記し、
これを基準に考えてしまえば
有り得ない話になりますが、
高句麗残党が立てた渤海国は
日本と深い関係にありました。

この書は高句麗が三国の歴史を
書き残した書物であるので、
都合よく捏造された可能性が
非常に高いものになります。

壬申の乱が半島から渡来した
百済勢力による侵略戦なら、
この解釈は容易になりますが、
高句麗と百済は信仰的にも
通じていたようですね。

都督府は魏より後の中国において、
地方の県政を担当した役所とされ、
平安時代に大宰府は筑紫都督府と呼び
権帥や大武の大宰府に赴任した長官を
都督と称していたとされています。

『行基菩薩とヘレニズムの復興』に、
日本書紀が倭国が継続している体裁を
唐に対してアプローチするために
編纂された説を提唱しましたが、
中国人は古事記は読めなくても、
日本書紀は普通に読めるそうです。

同じ時代に似たような歴史書を
二冊書いている事についての
一通りの説明はこれで出来ますが、
古事記と日本書紀が微妙に違うのは、
古事記の元ネタが景教徒が持ち込んだ
聖書にあるからだと考えています。

行基の時代までは大宰府とアジアの
関係性を提示してあるのですが、
道鏡も関わるのが面倒な所です。

本来は天神信仰の前に道鏡について
書く必要があるのは確かであり、
流れが見えないと分からない所が
出て来る事になってしまいます。

道鏡編も書けるには書けますが、
自分一人が分かっているのと
人に詳しく説明するのとでは、
レベルと労力が全く異なります。

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