理想の帝王

道真公を研究していると、
政治的な領域が深く関わり、
文献に堯舜が登場しますが、
これを見て理解出来る人は
現代ではかなりの通です。

堯帝と舜帝は儒教における
理想的な統治者とされますが、
どの様な政治をしたかは、
『書経』に書いてあります。

儒教は封建制がウンヌンと
根拠の無い話がなされますが、
身内に目ぼしい人材がおらず、
舜に娘を娶らせてテストし、
帝位を継がせた話があります。

この書が面白いところは、
現場での話し合いの内容が
記されている部分ですが、
定義付けされた記事を読み
理解したと思っているなら、
違う印象を受けると思います。

現代日本でこの議論をすると、
どこかの本で読んだ内容を
ベースに語るケースが多く、
あらぬ方向に議論が逸れる
事例が見受けられますね。

伝言ゲームと同じく、
人伝えをしていく中で、
原文から離れた内容に
変質する事が多くあり、
歴史ドラマ等は脚色が
かなりなされています。

『書経』はかなり面白い本で、
下手な小説よりも楽しめます。

ただ翻訳がイマイチな本も
存在するのは確かなので、
こう言うのは読み難い上に、
間違った解釈も誘発します。

明治頃までは漢文を原文で
読んでいたとされますが、
本当に直近の話ですね。

となると日本史の上で
儒教の影響力が多大でも、
当日と違う解釈の上で、
歴史研究が行われると言う
大問題が出てしまいます。

ビジネスでも中国との
交渉が多い現代日本では、
教養として原文を読んでも
オツな話なのでしょう。

知った上でどう解釈するかで
人間性が透けて見えるなら、
取り組みがいがあります。

政治を語るなら四書五経は
最低限の教養だと考えており、
アジアの歴史の根底に流れる
基礎経典の認識を違えていれば、
その言論も微妙な話になります。

精通した上で問題が分かれば
見識と呼べる物でしょうが、
原文を読まず人の話を聞いて
分かった気になり語るのは、
無責任なレベルでしょう。

特に性善説は完全に違う
解釈がなされていますが、
魂を磨くと神に通じる、
神道に通じる思想です。

磨けている度合いによる
違いに対する話もなされ、
無意味に人を信じる事の
奨励はなされていません。

むしろ戦争や権力闘争の
記述がなされているので、
理想と現実のような
二分化した議論でなく、
道理に沿った運営による
長期的見識が重視されます。

重要なのは精神論でなく
官僚の実務論としての
教育であった事であり、
実地で成果を上げ続けた事で
継承されて来た事ですね。

まあなんだかんだと言って
必要性があると言うのは
取っ掛かりなだけで、
経典を読み込んだのは
面白かったからと言う所が
かなり大きいのは確かです。

知識量だけ増やしても、
見識が浅い類いのものは
学問と呼ぶに相応しくなく、
深い味わいを教えないのは、
教育として不適切な部分が
大きい感じがしますね。

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