唐の衰退と日本

『行基菩薩とヘレニズム復興』で
安史の乱について書きましたが、
唐はこの戦に勝利したものの、
余りにも大きい被害を受けます。

乱に対抗するための軍事費の捻出で
塩の独占による高額取引が行われ、
塩の密売人の取り締まりが強化され、
武装集団や秘密結社が登場してきます。

875年に黄巣は塩密売人の仲間である
王仙芝が反乱を起こしたのに呼応し
黄巣の乱を起こしまています。

この乱は結局成功しなかったものの
唐の壊滅への流れを生み出しており、
陽成天皇の即位はこの翌年とされ、
アジア動乱との関係を匂わせます。

884年に黄巣は部下に介錯させ自殺し、
十年に及ぶ黄巣の乱は終結するものの、
残党は901年まで各地で暴れ続け、
甥の黄皓が率いる浪蕩軍が鎮圧され、
黄巣の乱は完全に終結したとされます。

901年は菅原道真公の大宰府左遷が
この翌年とされている事を考えると、
陽成天皇から道真公左遷までの時期は
アジアの大動乱と重なっています。

大宰府は都督府と呼ばれており、
唐の機関であったのであれば、
左遷と見る事は間違いでしょう。

藤原高子周辺の尽力により政治的に
独立した動きを見せた陽成天皇は、
アジアのパワーバランスの変化に
対応する政策を打ち出す事で、
大きな政変の流れを生んだ人物の
可能性が浮上してくる事になります。

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