宇多天皇から位を譲られた醍醐天皇は、
源基経の子・時平を重用する事により
政治改革を行ったとされています。
延喜二年(902)に荘園整理令を出して
国司に租庸調の遵守や班田の実施を命じ、
皇族・貴族等の院宮王臣家が
地方の有力者と癒着し荘園を増やす
既得権益にメスを入れたとされます。
基本的にこの動きは道真公の
政治改革の路線の継承であり、
新規で行った訳ではありません。
この政策は既得権益であった
摂関家にとって不利なもので、
藤原氏と癒着し踊らされて
道真公を左遷したとされた
天皇の政策としてしまうのは、
厳しい部分がありますね。
902年は道真公大宰府左遷の翌年で、
源時平は源能有の孫とされるので、
彼らの功績を奪い取るために、
以前に死んだ事にされた可能性は、
全く無いとは言い切れません。
源基経は頼朝にまで通じる
清和源氏の祖とされており、
ここは源氏の本で掘り下げる
必要がありそうな話ですね。
道真公の怨霊伝承は死の直後でなく
時間が経った後に登場しており、
解釈の余地のある所になっています。
大宰府が唐の機構であったなら、
左遷先とする事に疑問があり、
別の解釈を必要としそうです。