醍醐天皇による左遷

菅原道真怨霊説を調べると、
醍醐天皇が大宰府に左遷して、
天皇はその罰で地獄の責め苦を
受けているとされてます。

大宰府が唐の植民地管理施設で、
契丹が唐を凌ごうとする最中に
大宰府に送られたと仮定すれば、
左遷と見て良いのでしょうか。

醍醐天皇は道真の怨霊のせいで
天皇の位から降りた事になっており、
当時のアジア情勢を考慮に入れると、
時代の変革期に音楽性の違いで
ケンカしたような気配がしますね。

醍醐天皇の治世は摂関を置かずに
数々の業績を上げた事から、
延喜の治として評価されますが、
道真公の功績との関わりは
余り議論されずにいる状況です。

摂政・関白の内訳を見てみると、
草壁皇子の後は1158年まで
全て藤原氏が押さえています。

藤原氏全盛期の良房の時代には、
もう摂関の地位を用いなくとも、
好き勝手出来た状況のようですが、
この時代は色々な話がありますね。

摂関政治を廃止する目的が
藤原氏の影響力の排除なら、
藤原氏に唆されてた事で
道真公を左遷した話には、
疑問が浮上してきます。

大宰府への左遷は藤原時平の
讒言によるものとされますが、
道真公が天皇と娘婿の斉世親王を
すげ替えて皇位に就けようと
画策をしたと言ったとされます。

しかし大宰府周辺を探ると
醍醐天皇に纏わる地名があり、
道真公の恨みを買った伝承が
史実を伝えているものかを
見直す必要がありそうです。

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